昨年みちゆかしで藤枝宿西側の都市伝説を巡り歩きましたが、今回はその続編となります。
「むるぶ」編集長の小嶋さんの手に掛り、人気のプログラムとなっています。
参加者は、期待を持って蓮華寺池公園駐車場に続々の集合です・・・
「さあ・・これからスタート」。
蓮華寺公園駐車場の敷地は、以前「藤枝東高」に対して西側となる「藤枝西高」が在りました。
現在は城南地区へ移転(平成12年)し、跡地には堂々とした石碑が建立されています。
石碑の前で経緯等の説明を受けました。
駐車場のすぐ東側、「熊谷山蓮生寺」です。あの平家の敦盛を討ち取った熊谷直実(蓮生坊)謂われの寺院。また童謡「月の砂漠」の歌碑前では、藤枝生まれの叙情作家「加藤まさお」さんにもチョッピリご挨拶。
長楽寺町の秋葉灯篭に感心しながら、向いには枝っ子作家「小川国夫」さんが住まわれたお宅が望まれます。
江戸時代には朝鮮通信使も宿泊した「長楽寺」、青池の大蛇伝説もあり心なしか凛とします。
また、禅問答って「難しいんだろうな?」と頭を過ぎります。
りポータが、勝手に「藤枝の哲学の路」と想っている川の辺の路を、雰囲気よろしく歩きます。
慶全寺の観音菩薩を右手山側に臨み旧駿遠線跡地の歩道へ、地元の方懇親の「ハート」に出会いました。
そのまま、旧駿遠線路を大手方面へ、郡の大きな木像常夜灯の前で記念撮影しました。
郡付近は、武家屋敷跡の狭小な通路などが存在し迷路の風味が有り、その一部を歩きます。
江戸時代、田中藩に対して年貢減免一揆が起きました。その首謀者として義民・増田五郎右衛門はこの地で斬首されました。冥福を祈る地蔵堂です。
源昌寺を経て、大手の「郡役所跡」・「長唄・六代目芳村伊十郎別荘跡」等に足を止めながら、カトリック協会跡へ。
月見里神社近くの聖母教会の前身は、こんな木造の教会(現在は跡)でした。
駿遠線大手駅跡の交差点を、東海道の南側へ。
田中城は円形の城として知られており、本丸・二の丸・三の丸・外曲輪と4つの堀が同心円形に配置されています。現在はその形が崩れてしまって、「そのまま残っていれば・・・」と残念に思います。
田中神社・育英社跡・観音菩薩の万願寺と連続して訪れ、次は藤枝北高へ。
歩行者橋より北高の校舎を望みます。
少し寄り道ですが、その昔(?)「藤枝の高校は、東西南北の4高だったんです」。その中で北高は位置関係を考えると「何でだろう?」と思ったりしました。
現在でも、焼津へと続く「濱小路」は生きています。小嶋さんの解説の間にも周りの旧若人が「それぞれの濱小路」を口にしていただけました。当然路は途中途切れてはいますが、懐かしさを感じさせます。
ここは成田さんの少し東側。
成田山新護寺、千葉の新勝寺の県下唯一の直末寺院です。節分・火渡り等が頭に浮かびますが、最近「ボケ防止像」は人気、早速「頭・かぼちゃ」などなでなで。
地続き西側、左車神社の銀杏の木(鎌倉時代将軍になる為に下向中の親王、乗っていた牛車の左車輪が壊れ埋めたとされる)が道路工事に掛かり、神社と共にすぐ横の敷地に移転することとなりました。
藤枝名物通称「サッカー最中」、小豆餡たっぷりズッシリ重く、味は、其れこそ重量級。しかし、本名は「サッカーエース最中」なんです。現在2店の和菓子店で販売しています。
大手の交差点付近に「綺麗に保存されている、小山家の3階建て白亜の蔵」が在ります。以前は、道路との間にの建物により見えにくかったのですが、今は見事にその姿を見せています。
愛嬌たっぷり、西宮恵比寿大神・大黑天に置かれた椅子に座ってみました。
少し旧東海道を上ると、秋葉三尺坊大権現に出会います。以前、「天狗祭り」を見たことが有りますが、照明を落とした商店街を一本足の天狗の行列とほら貝の音色が蘇ります。
同時期の宿場西側「纏い祭り」が「動」の祭り、東側の「天狗祭り」は「静」の祭りと云えるではないでしょうか。
サッカーのまち藤枝は、高校サッカーの藤枝東高など著名ですが、「この前のオリンピック(東京オリンピック・1964年)」の年に、藤枝サッカースポーツ少年団が全国に先駆け発足しました。
ぐるっと左周りに藤枝宿東側を巡りましたが、最終は藤枝のミニ伏見稲荷(?)「茶ノ木稲荷神社」を訪れました。
今年の「・・・禍」をはじめ「様々な禍」を、侠客・長楽寺清兵衛建立の「狐」に祓ってもらいましょう!!
締めは、記入されたアンケート記入と嬉しいお土産の交換です。
(リポート・はんだ むねお)