No.30「仕掛人藤枝梅安の小説関連遺産を巡る小説舞台と藤枝宿の歴史遺産をあるきます」
今回は「藤枝梅安」。「おんぱく常連さん」は「彼のプログラム」というだけでも集まって来ます。
プログラムの「仕掛人及び主役」がその魅力の「因」で、「果」として定員充足「凄く、早いなー」となります。
参加者の方に配られる資料も、これまた解り易くて好評です。
集合の生涯学習センターを出発すると、右手に「あさり(シジミ)屋」さん、向は「お茶屋」さん。
仏教寺院(西光寺)・神社(月見里神社)・基督教(藤枝カトリック教会、聖母幼稚園)3宗教が隣接していて、その存在は珍しくて「聖地」といえます。
確かに「ありそうでない」と…納得の心持ちで仰ぐのは、月見里神社の楠の巨木です。 山がなく月がよく見えるたことから「月見里(やまなし)」とされたといわれます。
余談ですが、
神社鳥居の先、左側のシャッターの店は「上〇(じょうまる)」さんという鮮魚店です。また、近くの上伝馬商店街には、「八〇(はちぼし)」という居酒屋さんがあります。
その「上〇」さんから、落ち着いた和風の家並みを右手に見て、上伝馬の辻へ向います。
上伝馬に築かれた日露戦争「戦勝記念の凱旋門」。門は西向きで中側には上伝馬の家並みが覗かれます。それにしても、結構しっかりと造られています。
「藤枝市の木」は「松」ですが、藤枝宿には名を成す松の木が2本あり、その1本が正定寺の優美な松です。巨木ではないけれども横に伸びる枝振りが優雅で、訪問者をもてなしてくれます。田中藩14代城主が此処の弁才天を信仰し、時々参詣していました。その後に大阪城代に出世とされましたが、弁才天のおかげで出世出来たとして、その報恩の為に植えた松の木が「本願の松」(正定寺)です。その城主は土岐丹後守頼稔、その後京都所司代、老中を務めました。
「あっ! そうそう、梅安の父の墓はここ…だそうです」
正定寺をさらに西に上り、瀬戸川左岸に建つ「出雲大社分院」です。1889年に出雲教の分院として設立、10年ほど後に現在地へ。パートナーさんが指差しているのは、「コロナ…」では有りませんが、たまたまそんな感じに写っています。
勝草橋の東側。約半世紀前、袂の店でバスの待ち時間に素朴なこしあん(と記憶)の「オリンピック焼き」、を味わったことがチラッと想い出されました。 レインボーブリッジの映る写真では、参加者の方が熱心に瀬戸川の「広重画・徒渡り」をみつめてます。ちなみに、橋の名前は「勝草橋」と「かちくさはし」の双方です。 注・「オリンピック焼」:昭和15年幻の第12回東京オリンピックに由来
桜並木の緑が爽やかな瀬戸川堤を少し歩き、元軽便鉄道(藤相線・駿遠線)の線路跡の道を「元瀬戸川駅」から「元本町駅」方面へ、そして御殿小路を通り上伝馬問屋場跡へ。 小路脇の煉瓦塀は、以前の東京駅建築の際に余裕の出たモノを使用と云われます。
問屋場跡(上伝馬)での説明に耳を傾ける、参加者の方。 藤枝宿は、宿駅制度開始時(1601年)は上伝馬1ヶ所でスタート、4年後に下伝馬が設立され2問屋場となりました。宿泊設備は、上下本陣をはじめ殆どが上伝馬にありました。
ご存じ「仕掛け人藤枝梅安生誕の地」の碑が建てられている「おしんめさん(神明神社)」、稲荷神社に到着しました。 池波正太郎が仕掛け人の名前候補として、東海道五十三次の名称の中から選考して「藤枝がいい…な」と感じ(?)藤枝とされ、梅安については「一寸色気があっていいな…」と考えた(?)からの命名の様です。
藤枝宿を訪れた池波正太郎は、藤枝宿の表通りには往時を偲ぶものは無かったが、横路に逸れた小路には風趣を感じられて生誕地として設定されたと伺い聞きます。 多分、神明神社付近のこんな矮小な小路を歩かれたなのかな?(林光小路or山川小路)
日本遺産ストーリーを構成する、「久遠の松」(大慶寺)。 鎌倉時代、日蓮上人が比叡山修行から生国「安房」への帰途の際、立ち寄った茶店(簡易宿泊可)で法華経を説きました。それに感銘して信者となった夫婦に「お題目、毘沙門天」の授与と共に、記念植樹(?)として黒松を手植えしました。 それが約760年後、縦横高さ(30×30×27)mの豪壮な姿を私達に見せてくれています。 昨年認定された「日本遺産」ストーリーの構成遺産です。
以前、小坂地区は小路沿いにしっとり感の有る家並みが続き、落ち着いた風情を感じさせていたと記憶にあります。 現在は、空いているスペースも多く、往時の様子は写真などで知ることになります。
適度なウォーキングで巡った「梅安ゆかり巡り」、お土産の「梅安草庵(最中)」を手にし、次に期待を込めて解散です。 (はんだ むねお)