No34.弥次さん喜多さんと歩く藤枝宿 「久遠の松」もゆっくり味わいます・本編
昨年認定された日本遺産ストーリーを記念しての「まち歩き」プログラムです。
日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん駿州の旅」
最初は「…駿河の旅」の方がより馴染むのではないかとの感じを持ちました。 しかし、(極基本的に)駿河訪問を期待するガイドブック的な観点からは、駿河より駿州が印象で勝るかなと思い直しました。駿河の住人は自国(?)を駿河と呼び、他国(?)からは駿州と呼ばれる、一人よがりの思いですが、そこに落ち着きました。苦し紛れに例として、欧州の旅、豪州の旅、江州の旅(日本では近江)…好印象ではないでしょうか???
後ろ姿で身支度中の弥次さん、右の腕を上げ帽子(いや!笠)を支える喜多さん。
「ふじえだ観光案内人の会」が、初めてのおんぱくパートナー参加です。観光案内は手慣れているはずですが、扮装をして複数で案内をすることは初めてです。それで少し格好を付けて前説を入れてみました。 内容は、平安時代頃まであったと思われる志太の浦、藤枝宿の概要説明等々です。
まち歩きは、藤枝宿東木戸付近(成田山前)から寄り道をしながら西木戸(かちくさばし手前)付近までの休憩を含んで3時間強、2km強の行程です。
成田山の金剛力士とボケ防止像に見送られてスタート。
藤枝は「しいたけ」も有名、その椎茸屋さんの前を歩き、「小山さんの白倉」へ
弥次喜多は、見事な三層の白倉に見とれる、参加者の方もすかさず記念写真。
下伝馬問屋場を経由し、田中城武家屋敷跡(区画のみ残る)の小路を散策。界隈は車の通れない路も多く、迷路風で慣れないと迷ってしまいます。「松編」にも写真有ります。
小路散策後「白子由来の碑」に到着し、看板前でその名称由来を説明。 家康は、「本能寺の変」で堺から岡崎へ脱出。その際、海路側を担った伊勢白子の小川孫三が、家康より与えられた町が白子となりました。尚陸路側は主に服部半蔵が担った。
これは最近、約4年弱前に「トラヤ」さんの 2階に誕生した「白子ノ劇場」です。しばらく公演は出来ませんでした。それで、過去出演された俳優さん達の写真を、客席に並べ置きました。
どっきり風、ビックリしました、茶之木稲荷神社。 4月下旬に健在確認の赤鳥居、5月9日(日)催行日には撤去されて石の鳥居のみが残存。
熊谷直実(蓮生房)縁の蓮正寺、南無阿弥陀仏の10念の祈りの話は知られています。 寶国寺(現在寺としての建造物は在りません)の後生車(現世を懺悔し来世の幸を祈り、回します)
蓮華寺池の南側に在って、鎌倉古道と云われる小路を歩く一行、最近はリノベも進み、所謂「お洒落な界隈」に変貌しつつあります。
古道を抜け、若一王子神社へ。藤枝地名語源の一説として以下が有ります。 源義家が東征の際に詠(よ)んだ「松に花 咲く藤枝の 一王寺 宮居ゆたかに 幾千代を経ん」
若一王子神社の西隣「旧藤枝製茶貿易会社・事務所」(通称トンガリ屋根、三角屋根)。来る令和4年には蓮華寺池畔に移転されます。室内は令和2年に公開された際の写真です(1階和室2部屋及2~3階への梯子段)
「久遠の松」の大慶寺、グループで記念写真(浴衣の写真は以前撮影) 「久遠の松」を仰いでの休憩写真等は、「松編」です。
藤枝梅安生誕の地の」碑の有る「神明神社・稲荷神社 」に、早速その碑を確認しました。
上伝馬問屋場に到着。広重の「藤枝人馬継立図」の前での解説です。
本願の松の「正定寺」。第14代田中藩主土岐丹後守頼稔(よりとし)が弁才天に参詣した結果の「大坂城代」へ出世、その報恩として寄進。彼はその後「京都所司代」「老中」へ。其の弁天堂は写真右側にみえます。「松編」にも写真有ります。
伝承狐膏薬(狐膏薬)で知られる川庄屋「富岡屋」、(現トミオカ電気店)。その向い側では、ほほとぎす漬が「大阪屋」で作られていた様です。21世紀の藤枝弥次喜多道中は、此所で終了です。西木戸は少し先(西)で「かちくさばし」手前で、今は何も有りません。
(ふじえだ観光案内人の会・はんだ むねお)